今日はゴー宣ネット道場の動画の話題です。
評論家の宇野常寛さんが、しばらく絶版状態だった私最初の単行本
『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(1993年初刊行)を
「あの本がいま読めないのは許し難い。自分の手でもいいから復刊したい」と言ってくれた事は、さる4月3日に出版された
『怪獣使いと少年』増補新装版のあとがきでも書きました。
新装版出版の暁には宇野さんと話をしたいと思っていました。
先日、ゴー宣ネット道場の動画『切通理作のせつないかもしれない』にゲストで来て頂くというかたちで、ついにそれが実現しました。
※「宇野常寛氏『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』を語る?『怪獣』でしか描けない現実・痛み」
http://www.nicovideo.jp/watch/1432281363
『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』は、
1960年代後半から70年代前半にかけて、昭和のウルトラマンを書いていたの脚本家の内、四人にスポットを当てた本です。
最初のウルトラマンの頃はアメリカ領であった沖縄から来た金城哲夫、上原正三。長崎でクリスチャンの土壌に育った市川森一。大島渚らと「日本ヌーベルヴァーグ」の映画運動を支え、<騎馬民族征服王朝説>で日本原住民説を追い求めるようになる佐々木守。
存命の方には会いに行き、子どもの時から見ていたウルトラマンの作者はどんな人だったのか、彼等から与えられた影響はどんなものだったのか、考察しました。
これは私にとって最初の単行本であり、またそのもととなった原稿の一つである、別冊宝島レーベルの一つであった「映画宝島」誌の「異人たちのハリウッド」特集(91年)に掲載された『ウルトラマンと在日朝鮮人~単一民族幻想に挑んだ二人の沖縄人作家』が私の、初めて商業誌にプロとして書いた原稿でした。
宇野さんは、北海道に住む中学生時代に旧版を読んで、「こういう事を書いていいんだ、と思った」と、自分の批評活動のきっかけのひとつにしてくれたと言います。
それを聞いて、私は旧版が刊行された時の事を思い出しました。刊行日以来、ほぼ一カ月、毎日のように、分厚い何枚もの、文字がびっしり書かれた便せんを入れた封筒が送られてきたのです。
本の感想と、その人自身のウルトラマンや作家たちへの論が、思いの丈を吐きだすように綴られている。それが全国から毎日届いたのです。
宇野氏は、当時の別冊宝島シリーズや本書の旧版が、北海道の本屋にも置いてあった事が重要だったと言います。
「サブカルチャーというのは、たとえば渋谷のような『街』発信である事に価値があるものと、僕みたいな、北海道に居た若者にも伝わっていく、場所の特権性に限定されないものがあって、僕は後者に対象に書いていく事になるんですが、その原点となったのが『怪獣使いと少年』やあの頃の別冊宝島カルチャーに触れた事なんです」(宇野常寛さん談)
そもそもテレビというものが、多様な文化を映像に載せて、一度に全国あまねく見せていくものであり、多くの人にそのつどの思い出を残していきながら、改めて語り直される事が少ないメディアでした。
そこには、従来なら局所で終わるようなものを全国的に共有できる「功」の部分と、すべてが平準化して、やがて起源が求められなくなるという「罪」の部分がありました。
「今回、22年ぶりにめくって、それから増補の部分を読んだら、改めて『これはテレビの話だったんだな』と」
そう宇野氏が言ってくれたのは嬉しく思いました。私は今回、増補部分を書く時、何を増補すればいいのか、しばし考えたからです。
旧版の刊行時には、ウルトラマンシリーズは、テレビ地上波においては休眠期にありました。その後復活した平成シリーズの新たな歴史を書き加えるのがいいのだろうか?
または、ウルトラシリーズに限局せず、『新世紀エヴァンゲリオン』等のSFアニメや平成の仮面ライダシリーズ等の流れも押さえながら、キャラクター番組と時代性についての思考を延長していく方向性もある。
けれどそれらは、改めて他の本でやればいい事だし、私自身他でもやってきた事です。
むしろ22年前の当時はまだ自明だったけれども、いまは見えにくくなっている事を改めて輪郭づけて、時代に残す方が重要なのではないかと思い至りました。
それは、ウルトラマンを生み出した作家たちにとって、テレビというもの自体が巨大な怪獣だったという事実です。
彼ら自身は、生育していく中でテレビというものがまだなかった世代でした。テレビが普及する以前、紙芝居や人形劇、郷土芝居といったかたちで、子どもたちや地域の人たちに直に語りかける表現を実践し、その可能性を模索していました。
しかしテレビの登場によって、ある意味民衆の象徴だった子ども達の姿は外から消え、一人一人の顔が見えなくなります。やがて彼ら作家たちは、テレビのブラウン管の向こうの作者として、僕ら当時の子どもたちを幻惑する側になっていったのです。
いわば作者である彼ら自身が、テレビに「傷ついて」いたのでしょう。
「当時のテレビで、怪獣という、社会の繁栄から疎外され、さまよえる者たちが『居る』んだと子どもたちに見せる事が出来たウルトラシリーズは、あの時代だけの一回性のものだったのではないかと、今回の増補版を読んで改めて思いました」(宇野常寛さん談)
ウルトラマンシリーズはいくつかの休眠期を挟みながら現在も続いています。昭和のキャラクターも、当時見ていなかった人にも親しまれています。
その一方、テレビのあり方と視聴者のあり方との関係論は、一回性の出来事として書き記す価値があるのではないかと思いました。
それは、作品に登場する「怪獣」のリアリティとも関係します。平成のウルトラマンシリーズでは、怪獣を怖くて強い存在ではなく、絶滅種の保護動物という風に扱う向きもありました。
しかし怪獣とは「怪しい獣」であって、保護されるべき存在として認められた途端、怪しさという名の輝きも、強さも失ってしまう。
「平成のウルトラマンも、仮面ライダーも、時代に求められるヒーローを再定義する事には成功したと思うんです。それは海の向こうのアメコミヒーローの映画化作品とも、どこか響き合っていた。しかし、その一方、怪獣の方は復活させることが出来たかというと、疑問なんです」(宇野常寛さん談)
『リトル・ピープルの時代』等で、「平成」シリーズの同時代性に加担した批評を書いた事を自覚している宇野氏だが、実際に買っているキャラクターのフィギュアは、圧倒的に「昭和」のものが多いと言います。
「みんな作り手は最初『自分の番が回ってきたら怪獣らしい怪獣を復活させたい』と思って始める。たとえば『進撃の巨人』でも、圧倒的な存在感を持った人類の敵としての『巨人』を登場させる事が出来た。でも物語を進めていく内に、『巨人』も人間だった・・・というような展開にどうしてもなってしまう」(宇野常寛さん談)
平成のヒーローは、おためごかしな社会正義よりも、また体制の維持の強要よりも、人間が人間らしく生きる事を大切にし、そこを励まし奮い立たせる事で、逆に大きなものとつながっていくというかたちで、個々バラバラな時代に「守る者、守られる者」の絆を再定義した。
それは同時代に人々が求めているものそれ自体でもあったはず。
しかし、ヒーローが復活したこの社会から、はじかれてさまよっている、かつての怪獣のような存在はもう「なくてもいいもの」になったのか?
「そんな事はないだろうと思うんです。いつの時代にも、存在し続けるはず。けれど、それがテレビで『怪獣』というかたちで発想されるというのは、あの60?70年代の一回だけの事だったのかもしれない」(宇野常寛さん談)
そもそも、ウルトラマンの作家たちは、テレビという、これもある意味怪獣と言っていいものが全国をならし、均質化する事へ、同じテレビに身を染めながら、抗っていた節があります。
60年代後半、連続射殺事件を起こし全国を騒然とさせた青年・永山則夫に北海道という「地方出身者」の物語を投影する論調が支配的だった時代に、佐々木守さんは、どこにいっても「ふるさと」といえる原風景などは存在し得ず、均質的な景色が広がる日本列島の問題こそがそこにあるのではないかと問いかけました。
その事を提示したドキュメンタリー映画『略称・連続射殺魔』は、佐々木さんが、ウルトラマンシリーズ含めたテレビでの仕事で得たギャラをつぎ込んで制作したものでした。
<連続射殺魔>の故郷が、他ならぬテレビに代表されるメディアの中で「物語」として増幅されながらも、実質としては既に消えかけていたという事実は、かつて映画『ゴジラ』でまず銀幕でデビューした「怪獣」という存在が、テレビの中で最後の光芒を発していたのと対を成す現象だったのかもしれません。
宇野氏は、自らの世代体験として、インターネット時代以降の「怪獣」のあり方を、宇野常寛版『怪獣使いと少年』として書いてみたい・・・と語っていました。
今回の『怪獣使いと少年』増補版で、旧版の際には実物を読めなかった、上原正三さんが学生時代、書いていた沖縄の基地問題のシナリオを読み、新規インタビューを行いましたが、そこで書かれている半世紀前の沖縄と、今の日本の状況が、重なってきている事に気づいた私は驚愕しました。
おりしも、増補版が刊行されて少し経ったとき、『ウルトラマン』放映時の昭和41年に、辺野古への米軍基地建設が既に検討されていたという新事実が明かされました。
22年後、この増補新装版がどう見えているのか。その頃、日本がどんな局面を迎えているのか。それを占う前に、私自身もまた「いま、ここ」を取り巻く現実に、ごまかさず目を向け続けていこうと思います。